精神科学教室 医局員の声

公明の休み時間10th 黒い安息日(夜の果て旅館 1)

2017.07.26

2017年の7月17日は、朝からもうもうとした雨が降っており、どんよりと湿気を帯びた空気が立ち込めて、彼の行く手を抑えつけていた。ただでさえ回転の悪い頭がいよいよ重たくなってくる。このまま真っ直ぐ家へ帰ろうか、それとも……、彼は決められない。舌をだらりと垂らした黒い犬が、嫌な臭いを撒き散らしながら目の前を通り過ぎた。そのためにいっそう行きどころを失くした彼は、とっさに駅前のコーヒー・ショップに入った。臭気はなかなか消えず、ただだらだらと汗ばむみぞおちをTシャツごとぬぐっていた。はすかいの、黄色い目をした女性客の一人が、スマートフォンを取り出して、もてあそんでいる。メタリックな光沢を放つそのタブレットは、我々が小説や映画などでさんざん無意識に植え付けられてきたところの未来感を奏でている。おそらく人類は、これからもいっさいを(できるだけいっさいのものを)そのガラス質につめこんでいくだろう。彼にはなんだか、嫌なことのように思われた。さてともかく、彼はどうにかして気持ちを取り直さなければならないのだ、タブレット(錠剤)なしで。アイス・コーヒーを飲みくだす。アイス・コーヒーに終わりはない。やがて窓から陽の光が射してきた。彼は外に出て、空を見上げる。教会の鐘が鳴り、その屋根の上を、(何でもいいです。鳥とか。)が飛び越えていった。風が吹いて、青空が、雲の切れ目から覗いた。みたいな凡庸なものでなく、自分ならではの、いろんなことを書きたいんだよなぁ、と彼は思った。なんとかして、あと50回分は書きたい。夏の休暇中に、何回か分は書いておきたい。

きみあきの休み時間9th HEN頭痛

2017.02.07

六年に一度やって来る頭痛は、そんな彗星のごとき周期であっても、片頭痛と呼ぶのだそうだ。
O月X日曇り。病棟でサマリーを作っていると、頭の奥がじゅーっとしてきた。変だと思っているうちに、文の意味が分からなくなってきた。印刷して目の前に置くと、日本語、のような、そうでないような文字が踊る、ロゼッタ石でも眺めている気分になった。自分が、何語を読んでいるのか、分からなくなってきた。
オレンジ色したカーテンが私の右目をかすめたかと思うと次の瞬間
真っ赤な雨粒がどうと降ってきたので視界が不良。私はギュッと目をつぶって、そうして目をあけて、また目をつぶって、またあけて、と繰り返すのであるが  ますます 何が書いてあるのか分からない。頭の左っ側がずんずん痛んできた。
もう夕暮れ時とみえて  私の両隣りで雑談が始まり  中◯先生という名が聞こえた。私はその先生を知っているはずで  顔も浮かぶのだけれど  誰?  磁石が反発する   ちょうどあんな感じに  何度も何度も  力づくで顔と名を一致させようとするのだが  いっこうに  くっつかないのである。中◯は  元阪神の投手ではなかったか  みんな何を間違えているのだ  悪夢の中では決して声が出ない  戻って  スタッフルームに
五分ほど眠った。そうすると、中◯という先生は、確かに、
いたような気がしてきた。もう今日はダメだ、昼飯食ってねえんだ、ローソンに行くべし。エレベーターに乗って鏡を見れば、左目から血が出ている。おお、いけねぇ。明日から休もう。私は痛む頭で、今日が火曜なのか木曜なのかも分からず家に帰った。
家に帰ると、
なぜか自分には三十三歳の妻と四歳の息子がいたので、こう話しかけてみた。
頭が痛くなって、目から血が出た、どう思うか。
三十三歳の妻は言った、「MRIしたらいいわ。
なぜMRIしないの」
四歳の息子は言った、「きっと、無理しすぎたんじゃない?」
なるほど確かに三十三歳の妻が言う通り、
もう少しMムRIリしたらいいのかもしれない。気合いが足りないだけかもしれぬ。しかし四歳の息子の意見ももっともである。
待てよ。脳腫瘍。私は、思わず、戦慄、
これがもとで亡くなった若い美人を、知っている。以前、勤めていた病院の、実にきれいな、看護婦さんだった。私だって、もしかするぞ。

   さて私のMRIの結果はと言うと、
とくに病気は見つからなかった。やはり片頭痛だったらしい。自分の脳を見られる  なんて赤裸々。ただ、思ったよりもムリムリっとはしておらず、つまり肉感的な感じではなく、何だか頭の悪そうな脳みそだなぁというのが正直なところである。こんな頭じゃ、もう無理はできないよな。できないのだ。

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